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私の戦争体験 おじいちゃんの手紙

あけましておめでとう。

正月は実家の大阪へ帰ってました。


父方のおばあちゃん、おばちゃんに会って僕が子供の頃に亡くなったおじいちゃんの手紙をもらった。

昨年1月におばあちゃんの93歳の誕生日にメールして
「自分の93歳なんて想像つかんわ、逆におばあちゃんの(今の僕の)30歳の頃も想像つかん」なんて話から、昔の写真を見せてもらった事に始まる。

1月5日におばあちゃんちに行って古いアルバムを見せてもらった。
初めて聞く親族の話や昔話。そこでこんな手紙をもらった。



私の戦争体験


昭和二十年三月十四日の赤明に、大阪は本格的なものとしては初めての空襲を受けました。(三十機来襲)

当時、私の家は大阪市港区にあり、私と妻と長女(一年十一ヶ月)との三人暮らしでした。
空襲の当日は、あいにくと長女がはしかにかかり、高熱で絶対安静の状態でした。
いよいよ火事が近くまでせまってきて、隣近所の女、子供が逃げはじめた時、ふしぎなことには今までもえ広がっていた火災が急に消えはじめました。


昭和二十年六月一日の白昼に、大阪は大空襲を受けました。(五百機来襲)

空襲時には、私は勤務先の大阪市此花区の日立造船にいました。
ここでは、大型爆弾は投下されなかったので、被害はすくないほうでした。
それでも死者が四人あり、木造建築物のうちのいくむねかは焼けました(広大な構地の日立造船には、何千人もの従業人がいて、多数の大型不燃建造物がありました。)

四人の死者のなかの一人は顔見知りの青年で、結婚してから一ヶ月しかたっていませんでした。
あとから聞いたところによると、戦争死者はトラックで運び集めて、野積みしてガソリンをかけて燃やしたのだそうです。

当日大空襲では、市街地は徹底的に焼かれました。
勤務先から帰った私が家の焼跡の近くから見廻すと、見渡す限りまともな家はひとつもありませんでした。

あとで妻に聞いた話では、長女をおんぶして家から逃げ出した時には、あたり一面が火の海で
火と煙に追われ追われて無我夢中で逃げて逃げて、気がついた時には、安治川の支流にかかっている幸運橋のたもとの水の中に胸までつかっている人たちの仲間入りしていたそうです。
「もう、いよいよ、あかん。」
と人が言い、自分もそう思ったりしているうちに空襲が終わり、まず、上から落ちてくる爆弾の心配はなくなりました。

ふと横を見ると、先ほどまで元気だった少年が腹に大怪我をして、虫の息でした。
とても助かる見込みがないので、水をくんで飲ましてやると静かに息を引きとったそうです。

大火災中は、火が風を呼び、強いつむじ風が吹き荒れ、さらに火をあおりましたが、やがてその火も燃え尽きると、風もいつしか弱まり、静けさがしばらく続いてから、今度は真っ黒な空から、ものすごく激しい大粒の雨が私たちをたたきつけました。
                 終わり



「おばあちゃんの補足」橋の向こう側には人がたくさんいてそっちに行きたくても行けなかった。
おばあちゃんは手前のほうに居たのですが、橋より向こうの人は皆死んでしまったそうです。

初めは荷物もって逃げてた人も、途中荷物は全部捨てて逃げたそうです。
「焼けて終わってからなんにもなくて裸になってしもうた。」との事。


と、まぁそんなんでこの時期の写真はありませんでしたが、
造船技術者で、ギターとサキソホン(もう一つの楽器の話の手紙に実際にこう書いてる)が好きなおじいちゃんです。
「木は上が緑、下が茶色。だから服そうやるんやぞ。」だそうです。おばあちゃんらいわくおしゃれさんらしい。

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トギー

Author:トギー
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フィギア作ってます。絵も落書きしてます。
スケッチブックに描いたモノをフィギアにしていってます。
ワンフェス、デザフェスなどのイベントにスケッチフィギアと出展。 

mixi、「揚ノ宮 麺太子」
fg、「トギー」で登録してます。
ついたーは「toggyk」
ミクシーの初期の日記の方が絵の紹介が多いです。

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